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おはようございます田村です☀️
最近ちょっとだけ疲れが見える様で、気分転換に楽しかった頃の思い出でも書いてみれば?という所から、じゃあ一旦そうさせて頂こうかしらと…🙏
39年生きてて20年東京で過ごしたなら、そりゃ向こうのほうが思い出は詰まってるよな、と。
ただ、楽しかった頃…と一掴みに記憶を掘り起こすのも難儀なもので、一旦人生を整理してみようかと思いました。
人はわんさかおりますから、出会いの幅は広いし多いしそれだけでも楽しいもんですが、若い頃の印象として向こうの人はどこか『個性こそ‼︎』と言った風潮がある様に感じました🥻
個性が強調されるお年頃…というのも勿論あるだろうし、最初に絵の専門学校に通っていたからというのもある程度は関係しているとは思います。
パンクロックを象徴したかの様な桃頭、抹茶頭にトゲ付きのジャケットを着て、腰からぶっといチェーンをジャラジャラとなびかせる、ロックと言えば‼︎を絵にした様な人🎸
家着ですか?の上下灰色スウェットでだらし無さをこれでもか、と見せつける30歳の中国人。
多分初めて出会った中国の方で、想像と違って人を優先するだいぶ控えめな優しい方だったという印象があります🙆♂️
画風がきっと北斎とかそっち寄りなんだろうな…と、つい思わせられてしまうthe和風。
を醸し出した仙人みたいなファッションの若者もおり、色無しのパンピー的な所謂普通。であると興味を持たれるか以前に目に映らなかったんじゃ無いだろうかと思えます。
話してみると結構どの人も案外普通の良い人で、どこか出来れば普通であって欲しくなかった理想に虚をつかれたものです。
普通に近いほど当時の自分にはハードルが高かったもので…💦
数ヶ月過ごしてみた段階で、なんだろう、絵の授業って面白いのか⁇と疑問を抱くようになりました。
人によるとは思いますけど、絵を描くのはまあ、楽しいとは思います。
僕なんかは元々描くことに、なんなら描くことだけが特化していたのでそれがあって仲良くなれたグループがありました。
悪く言えば描くことくらいしか脳が無かったのですが🧠…
だから絵の歴史だったり写真だったりMacを使った修正だったり、仕事にすると凄いストレスになりそうだ、と思ってちょっとずつ敬遠しがちにもなっておりました💻📷
途中までは佐藤と同居しながら通っていたのですが、どうにも我慢がシビレを切らした辺りで、当時のグループの中の1人、遠藤という岐阜人に
「まちゃ(僕)俺国分寺に一人暮らししとるで、そこにおったらええやん」
と、助け舟を差し出され、どうにかこうにか夜逃げするに至った訳です🛍️🦵
今にして思えばちょっと意外かも知れませんが、あの頃は周りのみんなで一人暮らしと言う環境はそう多くはありませんでした。
当時一番仲の良かった金髪の和み系清春(黒夢)みたいな奴も、神奈川の本厚木から車で40分、電車1時間(乗り換えアリ)掛けて実家から通ってたり、エラいのだと栃木から通ってたり…と、僕には真似出来そうにはありません🚝
ただまあそうしてでも、だったのかなぁと。
栃木の子は家から通うならを条件にだったような気もするので、そう言う子は多かったかも知れません。
皆本気だったんだろうなぁ、そりゃそうですよね。
で、僕はというと当時親にたんまりお小遣いを貰ってた訳でも無いですし、バイトか…とも思ったんですが、高校の時にしていた道の駅バイトのチーフがめちゃくちゃ怖かったモンで、だいぶバイトに対する抵抗があったんです。
そこで手を出したのが……パチスロですね笑
当時は北斗、吉宗全盛期。
特に4階フロアの1階はオール北斗というのが割と当たり前の様に北斗熱は熱かったです。
そして無駄に勝ててしまっていたが故に、そこら辺から徐々に人生の歯車が…⚙️
